誰がために 我が道を






 僕に力は必要ない


 あの時、そう言った。





 ルルノイエ陥落の寸前に城から落ち延びた僕は、ひたすらに道を急いでいた。


 もう、時間が無かった。


 峠にさしかかったところで馬を捨て、重い身体を引き摺るように歩を進める。


 あと少し、あと少し、と酷く目が眩むのを誤魔化して。

  一歩、一歩、あの場所へ。

   約束の、場所へ・・・





 僕に力は必要ない


 あの時、確かにそう言った。





 夢を見ていた。
 遠い昔の、懐かしい、穏やかな夢。
 守りたかった、ささやかな夢。


「おや、お目覚めかな?」

 霞む視界の向こう側にゆらり、赤い火が揺れる。
 その傍らに座る黒髪の人物。

 息が止まりそうになる。


「少し待ってね〜。もう少しで魚が焼けるから。」

 穏やかに微笑む、緑のバンダナ。


 ・・・。
 どうやら、人違いだったらしい。



 思えば、道中ろくに食事をしていなかった。
 こんな時に食べ物など、と思ってはみても、魚の焼ける香ばしい煙に身体は素直だった。

「・・・お腹鳴ってるね。はい、お一つどうぞ。」

 からかうような、心底楽しそうな口振り。
 つられるように手が伸びて、一つ口をつけてしばしの後、焚き火の周りに逆立ちしていた十数尾の川魚は漏れなく胃の中に納まっていた。


「わ〜・・・スゴイ早さ・・・。」

 バンダナを頭にまいた少年は食べかけの魚を手に、呆然とこちらを眺めていた。
 曰く、彼はまだ一尾も食べ終わっていなかったそうな。


「釣りをしてるときにね、きみがフラフラしながら山を登ってきたんだよ。」

 どこからか取り出した薬缶を少年は火にかけた。
「見るからに倒れそうな雰囲気だったから、しばらく目で追ってたら案の定倒れちゃって。あれからもう半日近く経つかな。」

 半日。
 そういえば、辺りは既に茜色に染まりつつあった。
 慌てて立ち上がろうとしたのだが。

 くらり。

 頭の先に血が届いていないような感触。
 再びその場に座り込んでしまう。

「あらら、まだ起きないほうがいいと思うよ。それに、まだ彼は来てないから。」

 一瞬、我が耳を疑った。
 ・・・今、何と?

 この少年は一体誰で、
 何を知っていて、
 そして何故ここにいたのか。


 しばらく口が利けなかった。


 そんな僕を後目に、
「はい、どうぞ。」
 薬缶のお湯を急須に注いで、お茶を一杯いれてくれた。

 僕の目の前で、カップに入ったお茶をふぅふぅと吹く少年。

 尋ねてみた。君は、僕がどんな人間だか知っているのか、と。

 少し首を傾げて、一瞬、考えるような仕種を見せ、

「知ってる。でも、知らない。」
 そう嘯いた。

「だから会いに来たんだよ。」

「この目で、きみの姿を見ておこうと思って。」
 そう言いながら、魚籠から魚を一尾取りだして、小枝に挿す。それを焚き火にかざす。目は、僕のほうを見ていない。
 一尾取りだして、挿す。火にかざす。
 一尾取りだして、挿す。火にかざす。
 一尾取りだして、挿す。火にかざす。
 一尾取りだして、挿す。
「きみのその手を」
 火に、かざす。
「見せて欲しいと思ったんだ。」
 不意に目があう。
 まるで世間話でもするように少年はお茶をすする。

 僕は手袋を外して、右手を少年の目の前に差し出した。

「・・・へぇ・・・」
 同じように少年も右手を差し出して、僕の手を取った。

「この手は・・・何を守って、何を失ってきたのかな・・・」
 ぽそりと呟いた。

 パチパチと薪が音を立てる。
 ふと少年が返したその右手の甲にも、黒い紋章が刻まれていた。
 それがどんな紋章なのかは分からない。しかし、この少年も何かを背負っているのだろう、そう感じた。



「あ、そろそろ彼が来たみたいだ。」
 何を根拠にそう言っているのか判らなかったが、不思議と、それが当てずっぽうではないような気がした。
 僕は荷物をまとめて腰を上げた。世話になったことに礼を言って、その場を立ち去ろうとした背中に少年が声を掛けてきた。

「死に急いではいけないよ。」

 振り返る。その目は、まっすぐに僕を見ていた。

「ここから先はきみの道だよ。」

「もう、縛られなくてもいいんじゃないかな。」

 微笑んだその目元が、少し哀しげだった。





 僕に力は必要ない


 あの時、君は確かにそう言った。


 その力があれば、全てを守れる


 あの時、僕は確かにそう思った。


 僕は何を守れたのか。この道は、どこへ続いていたのか。
 僕には分からない。
 少年の言葉も、今の僕には分からない。


 今は約束のあの場所で君を待とう。

 二つに別れた道が、再び交わるあの場所で。






2002年7月

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