おぼろ月夜




 遅めの夕食を終えて、ふと屋上に出た。

 暗い湖面に丸い月がとろりと浮かんでいる。
 昼間の日差しに火照った頬を、風がさわりと撫でてゆく。

 夏の終わりはうら寂しい。
 静かな月の夜は特にいけない。
 体中から血が抜けていくような気がして、無性にひとの温もりが恋しくなる。

  肌寒さをごまかすように、酒場から失敬してきた酒をちびちびと愉しんでいるところへ、

「クリスさん。」
 振り向くと、今夜は月が綺麗だね、とフッチが微笑んでいた。

 隣に座ったフッチに酒を勧めてみるも、あっさりと断られてしまう。
「それに、クリスさんだってまだお酒飲める歳じゃないでしょ?」

 言われてみれば、そうだったかもしれない。普段自分の目では見えない、意識すまいとしている「自分」というものを、こういう夜に限って思い出してしまう。


 何を話すでもなく、黙って二人で月を眺めている。時々思い出したようにオレはぬるくなった酒に口を付け、肴に持ってきたスルメの足やら炙った海苔やらをフッチがつまむ。

 夜は更けていく。



 いつの間にやら眠りこけたフッチが、こちらに寄りかかっている。
 月に照らされた白い頬に涙が伝ったような跡を見つけた。

 もしかすると、フッチも思い出していたのかも知れない。

 こういう月の綺麗な晩にふと思い出してしまうのは、なにもいつもは意識しない「自分」というものばかりではない。

 懐かしい顔が、声が、静かな波のように胸の底にわき上がる。

 目を閉じる。

 波にさらわれてしまわぬように、負けてしまわぬように。



 うたた寝から覚めたフッチと丁度目があった。
「泣いてたの?目も赤いし。」
 イタズラっぽく問いかけると、
「ただのあくびだよ!」
 慌てて頬を拭いながら口を尖らせる。

 どこかくすぐったいような何とも複雑な気分になって、曖昧な笑みを浮かべてしまう。

 ・・・おや?

 はたと、既視感に襲われる。
 これと同じような場面を、自分はどこかで見ている。
 それが何時のことだったか、記憶の壺を手探りして、程なく目的のものに行き当たる。


 果たして、くすぐったそうに苦笑いしていたのはオレではなかったのだった。

 あぁ、そうだったんだ。
 あいつは、オレの事をこんな風に思って、笑っていたんだ。


 久々にあいつを側近くに感じて、右の手にぽっと、小さな火が灯った。



 月が投げかける青白い光が身体に染み込んでくるような感覚。
 さっきまで冷たかったその光が、今はなんとなく暖かい。
 傍らですぅすぅと寝息をたてるフッチの温もりを感じながら、

「たまにはこんな月の夜も悪くないかな。」

 そう思ったのだった。





    後悔も 慚愧も 不安も 無念も

    伝えたかった言葉も

    宛ら霞める おぼろ月夜






2002年6月1日

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