グレッグミンスターの夜は肌寒く、そして静かだった。 3年ぶりに訪れた街の片隅で、何となく眠れないまま僕は窓の外を眺めていた。 3年。 流れた月日は、街並みに、懐かしい顔ぶれに、何より僕自身に確かに現れていた。 3年。 移ろう季節は、いつもあの人だけを残して素通りして往く。 一つため息をつく。吐いた息がうっすらと白く煙って、夜の闇に溶けていった。 窓を閉めて、寝床に潜り込む。 冷えた足先をこすりあわせて暖める。 目を閉じて、また開く。 真っ暗な天井を見つめて、もう一度目を閉じる。 何となく眠れそうにないので、僕はベッドを抜け出して、あの人の部屋の前まで行ってみた。 彼はまだ起きていたようで、ドアの角から中の灯りが漏れだしている。 コンコン、と二つノックしてみる。 「開いてるよ。」 向こうからどこか寝ぼけたような声。 僕は一つ大きく息を吸って、ドアを開けた。 部屋いっぱいに詰まった光の粒が一斉にあふれ出てきて、一瞬目眩を感じる。 「よぅ。フッチ。」 部屋の片隅におかれた簡素な木の椅子に腰掛けて、その人は3年前と全く変わらない微笑みを浮かべていた。 いつものバンダナをはずして、ゆったりとした部屋着を着ているクリスさんは、心なしか幼く見える。 椅子が一つしかないので、とりあえず僕はベッドの上に腰を下ろす。 今さ、ちょっと釣り竿の手入れをしてたんだ、とクリスさんがその竿を僕の方に差し出した。 「これ、イイだろ?」 クリスさんの顔にはそう書いてある。新しいおもちゃを見せびらかしたくてたまらない子供のような顔。 「ほらほら、ちょっと手にとって振ってみなよ。」 あまり釣りに興味のない僕は彼の手から渋々受け取り、軽く振ってみる。 ヒュ ヒュ 持ち重りのしない竿が鋭く空気を引き裂くのが何となく心地よくて、細い先端が描く軌道をぼんやりと眺める。 「眠れないのかい?」 いつの間にかクリスさんが僕の隣に座っていた。 うん。 僕は頷いて、竿を返した。 「じゃあ、少し話しでもしてよっか?」 かすかに、苦笑い。 僕はもう一つ頷いた。 とりとめのないおしゃべりが冷たい壁に吸い込まれていく。クリスさんの語り口はいつものようにおもしろおかしくて、隣の部屋で寝ている人のことも忘れて僕は声を上げて笑ってしまった。楽しくて、時間が過ぎるのがもったいないようにも思えた。 話が一段落する。笑い疲れた僕はベッドに寝転んだ。 「喉、乾いたでしょ?」 軽く勢いをつけてクリスさんがベッドから立ち上がる。 「ちょっと待っててね。」 一言言い残して、扉の陰に消えた小柄な背中。 胸の奥が、少しイガイガした。 独りになった途端に、部屋の中が急に寒くなったような気がした。手の平を息で暖めて、その手で足をこする。 ベッドの上に座り直して、首だけ回して部屋の中を見回す。 飾り気の少ない、落ち着いた雰囲気の部屋。 おや? ふと振り向いた右手の壁に一枚の絵が掛かっていた。砂色の髪をした少年の肖像画だった。 どこかで見たことがある人物のような気がする。 ベッドから降りて、間近でその絵をしげしげと眺めてみる。 ・・・。 果たして、穴が開くほどに見つめてもその人物が誰なのか思い出せない。右から見ても、左から見ても、逆さまに見ても、やはりわからない。 しゃがみ込んで、下から見上げようとしたその時、額縁の裏に何か封筒のようなものを見つけた。 振り向いて、誰もいないことを確認する。一応扉を開けて、部屋の外にも誰もいないことを確かめる。 ちょっと後ろめたいものを感じながらも、額縁の裏から封筒を取り外す。 宛名のない、封もされていない少しくたびれた封筒。中には数枚の便せんがきれいに折り畳まれて入っていた。 一瞬ためらうも、僕は好奇心に負けてしまった。 便せんにはクリスさんの強くてきれいな文字が並んでいる。 −−拝啓。 グレミオのシチューがいつもよりおいしく感じられるようになった今日この頃です。 遠いどこかの同じ空の下、君は今どうしているのかと気になって、慣れない筆をとりました。 オレは今、トランから少し離れたとある村に腰を落ち着けています。 冬が近づいてくるとどうにも体調が思わしくなくて、 この村で久々にゆっくりと体を休めることにしました。 実は、君に謝らなければならないことがあります。 それはオレが君と知り合った翌年のこと。 夏も終わりのある涼しい夜のこと。 なぜあんなにも偶然が重なったのか、今でも不思議に思えます。 その日オレは珍しく夜更けに目を覚ました。 その時、普段はどんな小さな気配にも敏感な君が 珍しくオレが起きた気配にも気付かず深い眠りに落ちていた。 そして。 いつも君の右手にピッタリとはまった手袋が、 その夜に限って大きくはずれかかっていたのでした。 「火傷の痕だから。恥ずかしいから。」 そう言って、人目に曝すのを頑なに、ともすると異常なまでに拒んできたその右手。 君は洗い物をする時でさえ、手袋を外そうとはしなかった。 それを今、目にするチャンスが謀らずも与えられたのでした。 好奇心がイタズラ心に飛び火して、 オレはとうとう君の手袋を外してしまいました。 果たして君の右手の甲には、火傷の痕はありませんでした。 その代わりに、何か不吉なものを感じさせる黒い紋様が刻まれていました。 その時はそれがどんなもので、どんな力を持っているのか知る由もなかった。 でもその右手から尋常ではない何かを感じてオレはすぐに手袋を戻したのです。 ひどく後悔しました。 君があそこまで見ないで欲しいと頼んだものだったのに。 何となくその理由がわかった気がしました。 ゴメン。 君の信頼を裏切ったこと。それを今まで黙っていたこと。−− 何かに憑かれたようにここまで読み終える。 胸が締め付けられたように痺れている。手の平にじっとりと汗をかいていて、それをシャツの裾で拭う。 いったん背後を確認して、再びその手紙に視線を落とした。 −−本当は君にもっともっと謝らなくちゃならない。 こんなことを言ったら身の程知らずかもしれない。 不謹慎かもしれない。 今更って言ったら、そうかもしれない。 でも、あのころ君の一番近くにいたのはオレだった。 それなのに、オレは君に何もしてあげられなくて。 君はどうしてわずかな気配にも敏感なのか。 手袋を外さなかったのか。 その理由すら考えようとはしませんでした。 時折君が見せるひどく大人びた表情、 子供らしからぬ言葉遣い。 気付いていながら、知らない振りをしていました。 時にはこの紋章を疎み、 その宿命から逃げ出したくなったこともありました。 そして、君を恨みに思ってしまったことも。 本当にゴメン。 オレに何が出来ていたかわからないけど、 君がオレに心を開いてくれていたように思うから。 それなのに、裏切ってしまったから。 何も、出来なかったから。 そちらの生活はどうですか? 長い旅の終わりに、安らげる場所を見つけることは出来ましたか? 君は遠くへ行ってしまったというのに、 オレは君の気配を時々感じることがあります。 久しぶりに君に会いたいです。 会って、話がしたいです。 そして一言謝りたい。 今は無理ですが、そのうちきっと君のいるところへ行けるだろうと思います。 その時はよろしく。 敬具。 親愛なるテッドヘ クリス・マクドール−− 「フッチ君?」 読み終えたところで、突然後ろから声をかけられた。「わっ!!」と驚きが喉まで出かかって、あわててそれを飲み込んだ。 おそるおそる振り向くと、そこにはグレミオさんが立っていた。 「部屋の灯りがまだついていたようなので、またてっきり坊ちゃんが灯りをつけっぱなしで寝てしまったのかと思ったのですが・・・。坊ちゃんは?」 そこまで言って、グレミオさんの視線が僕の手に握られたものに注がれる。 グレミオさんの表情が少し険しくなる。 「ひとの手紙を勝手に見るのはいけないことですよ。」 「ご、ごめんなさい!」 僕はあわてて頭を下げた。 「謝る相手は私じゃないでしょう?それに・・・。」 ちらりと上目使いにグレミオさんの顔を窺う。その表情からは険しいものが薄れ、何やらもの悲し気な色がその瞳に浮かんでいた。 それに・・・? ひとときの沈黙。 「フッチ君、君が最初に坊ちゃんに会ったときのことを覚えていますか?」 思いがけない問いかけに少なからず面食らう。 僕がクリスさんと初めて会ったとき・・・? それは、確か僕がまだ竜洞にいた頃のことだったと思うのだが。 「私が初めて君にあったのはこの街だったんです。」 え?でも・・・ グレミオさんと初めて会ったのも、やはり竜洞でのことだったような気がしていた。 そんな僕の戸惑いを知ってか、彼は少し悲しげな笑みを口元に浮かべて言葉を続ける。 「やはり覚えていませんか?その時坊ちゃんも一緒にいたんですよ。」 頭の片隅に、懐かしいブラックの姿とともに、砂色の髪をした少年と顔をつき合わせて笑っているクリスさんの姿が見えたような気がした。 「あのときは吃驚しました。竜を間近に見たのはあれが初めてでしたから。」 あの日、僕は帝国からの命を受けてこの街にやってきたのだった。 「その竜と戯れる君を見て、何ともいえず気持ちが和らいだものでした。」 グレッグミンスターの城の裏手に降りた僕。僕はそこで、クリスさんに会っていたのだ。 そして、そこには。 「その時、会ったばかりだというのに君はテッド君と喧嘩したんですよ。覚えてますか?」 ちょっと懐かしいような、あきれたような、そして寂しげなグレミオさんの声。 −−竜騎士様って聞いて期待してたのに・・・なんだ、まだガキか。−− −−なんだと!おまえだってガキじゃないか!!−− −−まぁまぁ二人とも、喧嘩はそれくらいにして・・・。−− −−ゴメンねフッチ君。テッドも大人げなくて困るよねぇ。−− −−ぁんだとクリス!おまえまでそんなこと言うのか!!−− 僕はあの日のことを確かに思い出していた。 改めて壁に掛けられた少年の絵を眺める。 そうだ。 確かに僕はその人物に会っていた。 同時に、その人物がクリスさんにどれほど近しい人物なのかを知ったような気がした。 手紙に目を戻す。 この手紙は確かにテッドさんに宛てたものだった。しかし、そんなに仲のいい友達がいったい何処へ行ってしまったというのだろう?そんなに遠い場所に行ってしまったのだろうか? そんな疑問を口にしてみた。 グレミオさんが目を伏せる。 「遠いところへ行ってしまったと、その手紙に書いてあったでしょう?」 遠い、ところ・・・。 不吉に響くその言葉。 静かに視線をあげて、グレミオさんが呟いた。 「テッド君は、あの戦いの頃に亡くなったんです。」 余韻が壁にぶつかって、ガランと音をたてる。 無意識に僕はブラックのことを思い出していた。 なんということだろう。 僕がブラックを失ってうちひしがれていたあのころ、奇しくも、クリスさんは親友を失っていたなんて。 そんなこと、全然、知らなかった。 膝がガクガクと震えて、耳鳴りがした。 「フッチ君。」 意識が急に引き戻される。 「君だったら、この手紙を読んでもいいんじゃないのかと私は思います。」 グレミオさんは優しくほほえんでいた。 「でも、読んだってことは秘密にしておいてあげて下さいね。」 そういって彼は僕に背を向けた。 僕が手紙を額縁の裏に戻して、程なくクリスさんは戻ってきた。 「お待たせ〜。なんかちょっと料理したい気分になっちゃってさ。」 楽しそうに笑うクリスさん。 柔らかな牛乳の匂い。 クリスさんの手に握られた鍋から暖かな湯気が立ち上っている。 「はいよ。」 鍋の中身はパンの牛乳粥だった。 甘くて、なんかほろっとして、どこか懐かしくて、涙が出そうになった。 「どうしたの、フッチ?」 クリスさんの心配そうな顔が少しゆがんで見えた。 「オレの料理が旨くて感動した?」 いつものように茶化しを入れるクリスさんが今日は何故だか悲しくて、その顔をまともに見ることが出来なかった。 まだ熱いお粥を一気にかきこんで、僕はごちそうさまを言った。 そんな僕が見えているはずなのにクリスさんは何も言わなかった。 お粥をすする音だけが唯、部屋の中に漂っていた。 ややあって彼も食べ終わる。 視線を感じる。 視線を合わせることが出来ない僕はただ彼の口元を見つめていた。 「あのさ・・・、」 不意にクリスさんが何か言おうと口を開いたその時、 「お休みなさい!」 今声をかけられたら泣いてしまいそうだった。 クリスさんの言葉を強引に遮って僕はドアノブに手をかけた。 「お休み、フッチ。」 背中でその声を聞いて、僕は自分の部屋まで駆けて戻った。 ベッドに潜って頭まで毛布をかぶった。 涙が出そうになるのを何とかこらえた。 気持ちが落ち着くのを待って僕は布団を抜け出した。 机に向かう。紙とペンを取り出す。 しばらくペンを手の中でもてあそんで、また引き出しにしまった。 僕も出す宛のない手紙を書こうかと思ってやめた。 もう一度ベッドに横になって目を閉じる。 砂色の髪とバンダナ、二つの笑顔が瞼の裏に浮かんで、消えていった。 2001年11月 再録:2002年10月 |