虫の夢




 割と穏やかな冬を越え、暖かなマクドール家で新年を迎え。

 今年も目を覚まそうとしている。



 ここ何日か、自分の思うままにならない身体を持て余して、食事もろくにできないままで寝床に横たわっている。

 朝日が昇る。
 夕日が沈み、月が顔を出す。
 そして再び朝がやってくる。

 眠ることは、ない。
 気を抜いて目を閉じると、ヤツは抜け目なく、俺の意識を己が内へと引きずり込む。暗い暗い海の底へ、闇の腕に抱かれて一筋の光も射さぬ中へ、藻掻くことすら適わずにぶくぶくと沈んでいくような錯覚。
 身体中じっとりと汗をかいて目が覚め、その度に水を浴びる。汗がヤツの涎か胃液か何かのような気がして、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 息が、白い。
 もうすぐ春だというのに、思い出したように急に冷え込みがやってきて五日。指折り数えてみて、あぁ俺は、もうそんなに寝込んでいるのだなと初めて気付く。

 今年の発作は例年になく重い。ここ数十年に覚えがないくらいに。
 丸一日か二日、誰にも会わずに過ごせば落ち着いてくれるそれが、どうしてかこの春に限って、熱病のようにこの身を蝕むのだ。


 春を迎えて騒ぎ出すのは、なにも獣や虫や草木に限ったことではない。町も、人も、この右手に巣くう相棒も。




 昼過ぎに少し身体の調子が戻った。

 ヤツの飢えと渇きが直に右手から這い上ってきて、その意志に喰われかけていた明け方。もう何を考えるのも億劫で、それなのにあいつのことばかりが頭に浮かんできて。

「お前になぞ、お前になぞ喰わせるものか!」

 何度も、何度も叫んだ。息が切れるまで叫んで、目眩の向こうでヤツの嘲笑うのを聞いた。


 今頃あいつは何をしているだろう。
 下らない話で笑い合っていたほんの数日前が、なにやらひどく遠い昔のことのように思えた。


 窓枠の中の空に吹き流されてくる雲を、掃き出されていく雲を、何となく目で追っていると、不意に我が家の戸を叩く者があった。訝しんで息を潜め、耳を澄ます。

「おーい、テッドぉ。」


 懐かしい、声。

 聞きたくて、最も聞いてはいけなかった声。

 背中に冷や水をぶっかけられたように足が震えた。


 なんということか。
 結局はヤツの思惑通りになってしまうのか。
 己の心の弱さがあいつを呼び寄せてしまったのではないか、と心底自分が嫌になった。

 今会ってはいけない。
 いつまた大きな発作の波がやってきて、この心を乗っ取ってしまうか知れない。
 さりとて居留守は使えない。この家には隠れられるような場所はないのだ。しかもこちらの窓からのぞき込まれたら、俺が内に居ることなど容易にばれてしまう。

 ここは一つ、用件だけ聞いてさっさとお帰りいただくしかないだろう。

「テッド〜?居ないのかァ?」

 大きく深呼吸をして、ベッドを降りる。

「あれェ・・・ホントに居ないのかなぁ・・・。」

 冷え切った床を一歩一歩踏みしめて、扉の前に立つ。


 この薄い扉の向こうに、
 あいつが、
 居る。


 右手に脈を打つそれを極力意識しないように、悩みなど何もなさそうないつものテッドを取り繕って、俺は戸を開けた。


「あ、テッドだ。」

 満面の笑みを浮かべたクリスが、寒そうにそこに立っていた。

「居ないのかと思ったよ。」
 窓から中を窺ってから帰るつもりだったけど、と何気なく付け加える。
「おいおい・・・いいところのお坊ちゃんが何をそんな泥棒じみたことを・・・」
 今日の格好にしてもそうだ。
 ブカブカのくたびれた防寒用の外套を頭からすっぽりかぶって、中に何を着ているのか、やたらと着ぶくれたその姿はとても大将軍、テオ・マクドールのご子息とは思えない。

「で、今日はわざわざどのようなご用で?」
 わざとおどけた調子で尋ねてみる。するとクリスはにやりと笑って、
「テッド、具合悪かったろ?」

 後ろから頭を殴られたような気がした。
 呆気にとられて固まってしまった俺を尻目にクリスはするすると家の中に入って、テーブルの上によいしょ、と荷物を下ろした。
「あ〜重かった。」
 外套の下から出てきたのは、鍋料理ができそうな大きさの土鍋と、野菜だのエビだのの入った篭だった。着ぶくれしているように見えたのは、どうやらこれだったらしい。

「ほらほら、病人がいつまでそんなところにつっ立ってんだ?」

 暖炉に火を入れる。
 表から水を汲んで来る。
 湯を沸かす間に材料に包丁を入れる。
 包みからうどんを取り出して茹でる。

「このうどん、打ちたてなんだぜ。」

 手早くエビを衣に包んで煮えた油の中に落とす。
 具を土鍋に並べて、出汁を注いで火にかける。

 料理に関わらず、何をしているときでもクリスは楽しそうだ。釣りをしているときも、本を読んでいるときも、棒術の稽古をしているときでも、俺の目に映るクリスは、いつでも笑っていたような気がする。


 さっさとお引き取り頂く予定が、いつの間にか俺の目の前にはほかほかと香ばしい湯気を立てる鍋焼きうどんが居座っていた。
「しっかし顔色悪いな、テッド。ちゃんと食べてなかったろ?」

 人の気も知らないで。

 クリスは俺の顔をのぞきこんで、不意に俺の額に手を当てた。

 ぞくり。
 意識の片隅に這い寄る黒い影。
 額に触れた手の平の温もりが、相棒を目覚めさせてしまった。

「・・・熱も・・・あるみたい。」

 クリスの声が遠くで聞こえて、その刹那、一つの疑問が頭をよぎった。


 果たしてクリスを欲しているのは、俺と相棒、どちらなのであろうか。


 今まで、俺が大事に思っている相手を相棒が喰らうのだと思っていた。
 だが。
 相棒が喰らいたいと思う相手に、俺が好意を抱いていると勘違いしているのだとしたら。


 足下がぐらりと揺れた。

 居たたまれなかった。
 俺は暖かい匂いの詰まった自分の家から逃げ出した。



 5分ほど全力で走った。
 息が切れた。
 それでも立ち止まってしまったら、囚われてしまう気がして。

 今まで考えたことがなかったわけではない。しかし先程から、生々しくクリスを屠る感触が脳裏に、ぬるりとした生暖かい手触りが体中にまとわりついて離れない。
 これは発作の所為だ。そうに、違いない。この俺があいつを手にかけるなど、考えるだけでもゾッとする。俺はただクリスを・・・

 クリスを・・・?


 俺はあいつをどう思っていたのだろうか。


 やはり、ただ相棒の食欲に惑わされていただけなのか。


 考えれば考えるほどに、深みにはまっていくような気がした。


 町はずれまで走って、とうとう足が上がらなくなった。
 その場に倒れ伏して目を閉じた。




 目覚めたときには夜の帳が降りていた。

 このまま旅に出てしまおうかとも思ったが、やはり何処にも往く当てがなくて家に戻ってきてしまった。内にクリスが居ないことを祈りつつ俺は戸を開いた。

「おかえり。」


「病人がこの寒い中、どこをほっつき歩いてたんだい?」


「そろそろ帰ってくると思って鍋を温めておいてよかった。」


「はい、どうぞ。うどん伸びちゃったけどな。」


 熱々のうどんをすする。

 どうしてこいつはこんななのだろう。
 何でもそつなくこなして。
 いつも何も知らないような顔で笑って。
 本当は、おおよそ勘付いているくせに。

 もどかしくて、後ろめたくて、涙が溢れそうになる。

「あれ、テッド、うどんがうまくて感動したか?」

「いやぁ、つゆが目に入っちまったよ。」

「食い終わったら、暖かくして早く寝なよ。オレ、そろそろ帰るからさ。」

「そっか。」

「うどん、まだ残ってるから、明日の朝にでも暖め直せば食えると思うよ。」

「おう、ありがとな。」

「じゃ、お休み。早く元気になれよ。」

「またな。お休み。」

 あのボロマントを羽織ってクリスが出て行く。宵闇の中へ、小さな背中が遠ざかっていく。俺は一人でうどんをすする。冷えた身体が芯から暖まっていく。

 ひとまず相棒もあきらめて眠りについたようだった。


 とりあえず、横になることにした。

 もう少し状態が落ち着いたら、土鍋を持ってあいつの家へ出かけよう。
 あいつが俺にとっての何なのか。
 考えるのはその時だって遅くない。


 長い冬を忍び 春を焦がれる
 地に眠る虫の夢もまた かくの如くかと思った






2002年11月5日

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