くさまくら




 霞深い山に分け入ること十日、鬱蒼と茂った木々に遮られた視界がはたと開けた。



 あの山は 出る

 麓の村で聞いた噂。
 あちこち旅をしてきたが、実際にそういうものに出会したことはそうそう無い。村の者が祟りを懼れてほとんど立ち入らないと言う程の山ならば、ひとまず、足を運んでみる価値はありそうだ。

 折角なので、辺りが寝静まるのを待って村を出た。
 人家の灯りが見えなくなって程なく、みっしりとそびえる、さながら黒い城のような森へと足を踏み入れた。
 木々の間から差し込む月の光が深い夜霧に溶け、確かに此方と彼方の境目が曖昧な空気が漂っている。夜が更けるまでちびちびと飲んでいたことにも少しばかり因るのかもしれないが、それにもまして村の中とは異質な、どこか人を拒むような何かを感じたのだった。

 世の中には、まだまだ不思議なことが多い。
 急いて往かねばならない処もない気楽な身の上でもあり、幸い、暇も時間もゴッソリとある。そんじょそこらの人々が見たことのないようなものを片っ端から見て回って、噂を頼りに西へ東へ、人の一生分以上の時間をかけて歩き回っても、それでもなお、流離い歩くこの足が留まるには至らない。
 つくづく世界は広いと思う。

 不謹慎に胸をときめかせ、道無き道を夜通し歩き続けたが、結局何も起こらぬまま夜が明けてしまった。
 宵闇が白々と色を失って、どこかで鳥がさえずり始める頃に一晩分の疲れがやってきた。手頃な枝によじ登り、毛布にくるまって目を閉じると、すぐに意識は遠のいていった。


 昼過ぎに目覚め、軽く食事をして再び歩き始める。

 昨夜と同じく深く煙ったなかを黙々と歩く。霧の向こう、中天にぼんやりと浮かぶお天道様を見上げながら、よもや昼日中に出ることもあるまいとは思うのだが、どうにも、夜中に墓場を一人で歩くような気分が抜けない。
 そんな心持ちを訝しく思いながらあたりを見回してみて気付いたことには、この森には生き物の気配が少ない。鳥や虫の音、動物の息づかい、草木の鼓動。音が、色が希薄な世界。


 道に迷ったと本格的に思い始めたのは、夕飯にパンをかじっている時だった。
 噂を聞いた村からまっすぐ北にある次の街を目指して山を横切っていたはずだったのだが、急な斜面やら小川やらを迂回しているうちにいつの間にやら方向を見失ってしまったらしい。
 半年に一度くらい、大きく道に迷う。一週間近く森の中をさまようこともそう珍しくはない。
 10年に一度くらい、致命的に道に迷う。砂漠の真ん中で立ち往生、干涸らびかけたところを旅の一座に運良く拾われたこともあった。
 今回は一体、どれくらい迷うのだろうか。

 老いるということからこの身が縁遠くなってからはや暦は幾たびか巡り、とうに見知った顔とも思い出やら昔語りの中でしか会うこともなくなった。見た目は若くとも、中身はいい年の、それも相当に齢を経た爺様なのである。

「何時になったら迷わなくなるのだろう。」

 ひとりごちた言葉が焚き火でパチパチと燃えて、空に昇っていったような気がした。


 山に入って五日が過ぎた。
 パンはもう食べ尽くしてしまった。途中の川で革袋に汲んでおいた水もそろそろ尽きかけている。日を追うごとに道は険しくなり、水を得られる場所も疎らになっている。今日一日歩き通して見かけた水場は、わずかに雀の涙ほどの水たまりが一つ。相変わらずの朦々たる霧にもかかわらず、木の葉に露が溜まっているわけでもなく、汁気の多い苔が古木にむしているわけでもない。
 見事なまでに不可解な森である。

 不可解といえば、この森にはあるキノコだけが多い。それは食用になる、ある種類の少し大きめのキノコである。此処其処と、時々思い出したように群れて生えている。長生きのお陰か大抵のキノコを判別出来るまでになった。
 だが。

「はて・・・?」

 酒の肴に、干し肉と一緒に炒めたキノコをつまみながら頭をひねってみる。確かに食用だったことは覚えているのだが、どんな場所に生えるのか、それが思い出せなかった。

 全部平らげてもまだ思い出せなかった。味はなかなかだったので、それで好しとした。


 さらに二日が経つ。
 さすがにキノコだけでは腹がくちくはならず、空腹からくる目眩にやられてうっかり道を踏み外してしまった。優に落差が大人10人分くらいはあろう急な斜面を滑り落ちて、打撲と擦り傷だけですんだのはかなり運の良いことだった。
 身の回りのものを確認して一息ついたのも束の間、いつも酒を入れている瓶(かめ)が割れてしまっていることに気付く。ついに手持ちの水物を切らしてしまった。
 一瞬、引き返そうかと考えた。とりあえずの傷の手当てをしながら斜面を見上げると、ため息が自然、こぼれて出た。

 少し歩くと、谷側に下る道に出た。とはいえ随分と長い間人通りのなかったらしく、ほとんど道と呼べるような代物ではなかったのだが。

 下る。
 下る。
 地の底まで降りていくような錯覚に陥るほどに、その道はぐねぐねと、延々と下ってゆく。

 下りきったところで少し開けた場所に出た。
 そこには無数の、人とおぼしき白骨と、それらが身につけていただろう武具が散らばっていた。そして遺骸の埋まっていそうな其処彼処にあのキノコが傘を広げているのだった。

 本当に飢えて倒れそうになるまで、あのキノコは口にすまいと思った。



 それからの道は平坦だった。キノコも水もなく、ただひたすらに古く細い道を辿った。





 乾いて痛む喉をおさえながら、夜を日に継いで歩き続けて十日目の昼過ぎ、ようやく視界の開けたその先には小さな村があった。

 狭い谷間に100人ばかり暮らしているのであろうか、その村はいかにも外界と接せずに自給自足を営んでいるように見える。道沿いに広がる小さな畑と放し飼いの家畜。ちょうど食事時なのか、通りに人影は見当たらない。
 交易の無いところにむろん宿もなく、とりあえず目にとまった家の扉を叩いた。

 こういうときに子供の格好をしていると便利なもので、里の者以外は信用しないであろう人から多少奇異の目で見られることはあっても、大概は一夜の宿に有り付くことはできるのだ。

 その家の主は気のいい老人で、わざわざ湯で身体を拭いて、傷の手当てまでしてくれた。たっぷりの水と食料も分けてくれた。
 しばらく仮眠をとって、陽が沈んでややあってからぶらりと外へ出た。

 老人に教わった道をとぼとぼと酒場に向かって歩く。
 森の中と同じように薄くかかったもやの向こうに浮かぶ家々の灯りは、さながら人魂のようにも見えて少し背筋がゾクリとした。

 酒場の中は場違いなほどに陽気で、騒がしかった。農夫らしき男、木こりらしき男、猟師のような男、少年、老人。暖かでどこか懐かしい空気。
 軽く挨拶をして空いたテーブルに着く。よそ者の自分をも、酒場の衆は空気のように軽く受け入れてくれた。少々酒も入って話も盛り上がってきたあたりでふと目を向けた酒場の片隅に我が目を疑うようなものを見た。

「・・・と、・・・。」

 口から飛び出しそうになった言葉をあわてて飲み込んだ。一瞬強張った表情を素早く取り繕って周りの話題にそれとなく合わせつつ、隅の暗がりの小さなテーブルで一人ちびちびと酒を口に運ぶ男のその所作を目の端で追った。
 がっしりとした体躯、焼けた肌、暗い色の短い髪と瞳、彫りの深い面差し。内に何かを秘めたような眼差し。
 見れば見るほどに胸が熱くなる。

 きっとあの人もこういう風に、飲んでいたのだろうな、と。


 やがて男は一人静かに酒場を出てゆく。男衆と挨拶を交わして。その背中を皆に見送られながら。

 ややあって自分も仮の宿に戻った。
 床にござを敷いて、その上に毛布に包まって天井の板目の染みを眺めている。
 酒場でさりげなく聞き出した話。
 男は狩りと畑仕事で生計を立て、人望に篤く、妻には数年前に先立たれ、その妻の死と引き替えに授かった、当年5歳になるという息子と暮らしているのだそうだ。

 偶然にしては出来過ぎている。
 冗談にしては笑えない。

 右手の甲がツキリと痛んだ。


 翌朝、少しの旅の食料と水を老人からいただいて、礼を言ってその家を後にした。村を出る前に酒場によって、道中のお供に少し酒を調達し、昨夜の男の家をそれとなく尋ねてみた。しかし酒場の主人が言うには、男は今朝から山に入ったので、次に戻ってくるのは早くても夕方過ぎになるだろうということだった。
 少し残念で、その何倍かホッとした。


 谷沿いに道を上りながら一つ思い出したことがあった。
 昔このあたりには小さな国があって、その国には二つの民族が暮らしていた。支配するものと、されるもの。ある時内紛が起こり、支配民族はどこかに追われ、それからは、それまで支配されていたものたちがこのあたりを治めるようになったのだった。しかし勝ち側も戦いで多くの犠牲を出してしまった所為か、それ以来歴史の表舞台から姿を消してしまった。
 そう、思えばこんな味だったやもしれない。もうずいぶんと昔に、これと同じ酒を飲んだことがあるかもしれない。谷間の村で仕入れた酒を一口含んで空を見上げた。相変わらず霧は深い。昔何が起こってこんなことになってしまったのかは今となっては知りようがないのだが、この森には、確かにたくさんの想いが今も息づいているような気がする。

 陳腐な言い方だが、形のあるものはいつしか壊れて亡くなる。同じ場所に在り続けることはできない。
 時間に置いて行かれたような我が身でさえ、死は免れない。
 この手を汚して、友を失い、父を屠ってまで手に入れた束の間の安寧も、幾たびか戦火に焼かれ、今はどうなってしまったやら、風の噂も届かぬ程にこの身は流れ流されて来た。
 形無き想いというものが薄れも廃れもせずに一つところに留まるのがよいのか悪いのか判じ得ないが、いつの日かこの身も地に倒れ伏し、苗床になるのだなと思うと、何か一つくらい、浮きも沈みもせず、ただ其処に鎮座して呉れているものがあっても罰は当たらないのではなかろうか、という気がしてくる。

 再び夜が来て、月が昇る。
 奇妙なこの山での暮らしももうすぐ終わりを告げる。
 あの村には二度とたどり着けまい。
 それで構わない。
 もしかすると、またどこか会える日が来るのかもしれない。
 それでよいのだろうと思う。


 流れ続けるこの世界は、益々広い。






2002年9月

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