風の一歩




 刷毛ではいたような淡い雲が、高い空を静かに流れている。
 日一日と深まっていく秋に、冬ももうすぐだな、などと少し気の早いことを考えながら、ぼんやりとパスタを繰っていた。朝昼兼用の食事に、昨日グレミオさんからお裾分けしてもらったキノコを茹でたパスタに絡めて、塩こしょうで炒めただけの簡単な献立。その半分ほどが胃の中に収まったところで、不意の来訪者があった。

「あれ?お前、今日は学校があったんじゃなかったのか?」
 扉の向こうには、士官学校の制服を着たクリスがやや興奮した面持ちで立っていた。
 俺の第一声に少々気勢をそがれたのか、
「さぼった。」
 憮然とした声が返ってきた。

 良家の、しかも武家の生まれながら、この少年には堅っ苦しいところなどほとんどなく、というより、天真爛漫で少々ルーズな性格の持ち主である。頭の回転も速く、長生きなはずのこの俺でさえ時折やりこめられてしまうほどなのだが、本人曰く「いわゆるお勉強は好きじゃない」のだそうで。鍛錬や軍楽の授業のない日は気分も乗らず、こうして学校をさぼって俺のところに遊びに来ることも少なくない。

「ここんとこ、寒いなぁ。」
 暖炉に当たりながらクリスは妙に楽しげにつぶやく。
 このお坊ちゃま、寒がりである。しかも暑がりでもある。とはいえ、楽しみを見つけてはそれに打ち込める性格の持ち主であるこの少年にとっては、冬であろうと夏であろうと、大して苦にはならないのだろう。これくらいの季節だと、「早く雪が降らないかなぁ」などと胸を躍らせているに違いない。

「なぁテッド、今日空いてるか?」
 俺の皿からキノコを一つ失敬しながら、にんまりと笑って話を切り出した。
 こいつがこういう笑い方をしているときは、少なからず何か企んでいるときで、しかも相手が反論したり、断ったりしないと分かっているときに限る。
 きっと、悪意はない。
 滅多なことで見せる顔でもない。
 何の疑いもなく気を許せる相手にだけ、こんな風に振る舞うのだろうと、本人が言ったわけではないのだが、何故かそう思えた。

 せっかくいい天気だから、山に行きたい。

「キノコ狩りに行こうよ。」
 てっきり彩なす山の秋景色を楽しみにいくのかと思いきや。
 まったくお前ってやつは。
 思わず口元がにやけてしまう。


 さすがに都合が悪いと思ったのか、「きつい」だの「小さい」だの文句を言いながらも、制服から俺の普段着に着替えて、のんびりと山に向かった。
 山と言っても、谷やら崖やらがあるようなそう大層なものではなく、ごくなだらかで、丘の上に林をおくと感覚的にはこんな具合になるのかもしれない。そんな訳で決して標高は高くない。それでも木々をわたっていく風は街のそれとは全く別のもので。
「うー、風が気持ちいいなぁ。」
 隣で少し寒そうに体を縮めながらも、同じように感じていたらしい。
 鮮やかに色づいた木の葉がはらりと舞う。
 クリスが持ってきていたグレミオさんお手製の握り飯を二人でパクつきながら、木々の合間からこぼれ落ちる陽を身に受ける。乾いた木々の匂い、葉音。淡い空に映える、赤やら、黄やら。今日は本当にいい日和だ。
 だというのに。
「あっ、ここにも生えてる。」
 籠を小脇に抱えて、手当たり次第にキノコをむしっているヤツが一名。
「ほんとに花より団子なんだな。」
 黙って座っているのが苦手で。景色をゆっくり楽しんでいたのは結局、食事をしている間だけだった。
 毒のあるものもないものも、一緒くたに籠に放り込んでいるのに見かねて、「これは食べられる」「それは毒がある」と一つ一つ教えてやることにした。クリスは最初こそいちいち頷いては興味深げに聞いていたのだが、何か思うところがあるらしく、段々と表情はこわばり、「ぅー・・・」と唸って浮かない顔になっていた。
「毒キノコをつまみ食いでもしたか?」
 茶化して尋ねると、
「・・・どうして?」
 項垂れて足下を見ていた目がおずおずとこちらに向く。
 子犬のような眼差しで、やや上目遣いに俺を見つめる。
「どうしてテッドは、こんなに色んなこと知ってんだ?」
 ややあって吐き出した呟きに、俺は思わず天を仰ぐ。

 あぁ、やっぱり。
 薄々予想していた反応。
「それは年季の違いってやつだ。」
 クリスに向き直って、その頭をぽんぽんと撫でる。

 −−どうしてテッドは

 幼いクリスはよく俺にそう尋ねる。
 年端もゆかないなりに、俺の内に何か異質なものを感じて、その違和感が何なのか判らなくて、漠然と「どうして」と口にするのだろう。
 尋ねられても、俺には曖昧に答えることしかできない。「旅の生活が長いから」とか「一人の暮らしに慣れていたから」とか。当たり障りのない答えではあるが、勘の良いクリスはこっそりと疑っているに違いない。こういう問答をした後で、大概しっくりこないような、どこか寂しげな顔をしているのは、きっとそんなわけなのだろう。


 木に登って夕日をみた。
 秋の陽は何とやら。お天道様が傾き始めたと思ってから程なく、西の空があかね色に染まり始める。向こうにトラン湖の湖面が黄金色に輝いている。歯の根がかみ合わなくなるほどに冷たい風が不意に吹き抜けて。
「そろそろ帰ろうか?」
 キノコ狩りの半ばあたりから怏々と黙りこくっているクリスに声をかけた。

 返事は、ない。
 その瞳はただ湖の方を、そしてその向こうを見据えている。

「あの湖の先には、何があるんだろう。」

 唐突に、明るい声。
 いつの間にかこちらに振り返ったクリスが、目を細めて微笑んでいた。

 背筋をザワリと何かが這っていった。

「あの向こうには、海があるんだ。」

 いつもなら「なんだ、お前そんなことも知らないのか?」と軽口を叩くだろうところだが。
 眩しすぎた。
 親友の、その笑顔が。

「そのうち、一緒に行ってみようぜ。」
 などと、思いもかけず、願っても叶わないような甘い夢を口に出してしまうほどに。

 少年の顔に、例のにんまりが浮かぶ。
「ヤだ。」

 テッドと一緒に行ったら、いつまで経ってもテッドに追いつけないから。

 焦燥。
 駆り立てていたもの。
 少年の、親友の、偽らざる年相応の姿。

 ああ自分にも、こんな頃があったのだな。
 きまりが悪くて笑顔を作ってみたが、きっと、苦笑いになっている。

「いつかお前の歩いた道を、オレも歩き倒してやるんだからな。」

 追いつけない、適わない、そんな冥い想いさえ、この少年なら踏み倒して、小さな体いっぱいで喜びに変えていくのかもしれない。今日の空のように晴れやかで、その瞳に映るままに澄んだ心で。

「あぁ、楽しみに待ってるよ。」

 心の底からそう思えた。






2002年11月5日
加筆修正:2003年8月18日

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